歴史

向山寺は開山主「妙響」の父が基盤

開山主の「妙響」の父「守三」(後の秀音)は、千葉県東葛飾郡明村岩瀬(現在の千葉県松戸市岩瀬)の倉田家の長男として生まれる。若い頃から修験行者を志し、松戸の地を拠点に全国の修験道の普及活動に努めた。
信者の数は年々増え続け、特に江戸川を挟んで、松戸、金町、三郷、吉川の東、南、北の葛飾の地においては、弘法大師の信仰の上に「守大師」と呼ばれ絶大な信徒支持を得ていた。


妻を迎え、三郷をはじめとする北葛飾の信徒の信仰あって、高洲の地にお堂が奉納され、「三弘大師教会(さんこうだいしきょうかい)」の住職にと迎えられることとなり、当寺開山主の「妙響」を含める3男6女が生まれ育つこととなった。

向山寺の発祥の地は松戸

 一方、松戸の地については、各方面からの信徒の信仰あって、松戸市大字松戸字向山(むこうやま)の山林に八十八の石仏像(四国八十八カ所の札所参りを準用した参詣コース)が奉納され、一週お参りしたら朱印を押してもらうための朱印帳場が山の入口に造られることとなった。これが向山寺発祥の地となったものである。


当時は毎月、大師の日、即ち21日になると石仏参りに千人の行列ができるとも言われたほど信仰が盛んで、朱印帳場においては三女「妙響」が手伝いをしていたという。

開山主「妙響」が宗教法人を設立

第二次世界大戦が始まるが…

妙響が17歳の時、醍醐本山の師匠(当時醍醐寺三宝院門跡「岡田海玉(おかだかいぎょく)」)のもとに得度し、醍醐山傳法学院にて修行(四度加行)をし、学院卒業の後、女学校(現在の白梅短期大学)に入学し、無事卒業した。その後、第二次世界大戦により、一時、鳥取県に疎開した。戦後、松戸の地では戦前同様の信仰が盛んで、借地ではあったが、朱印帳場が実質的には寺院としての役割をし、加持祈祷寺として「向山大師(むこうやまだいし)」とか、「お手引き大師(おてびきだいし)」と呼ばれていた。


法人を設立

昭和26年になると、「宗教法人法」(法律第126号;昭和27年8月1日施行)が公布されたことにより、従前の宗教法人令による寺院の都道府県認証が必要となったことから、妙響は、「向山寺」としての法人確立をした。

その苦労あって、昭和29年3月10日には千葉県知事の宗教法人設立認証(昭和29年3月23日法人設立登記)を得ることができ、「向山寺」が名実共に寺院として設立されることとなった。

父・秀音は高須、娘・妙響は松戸の地で布教活動

この頃には、向山寺の運営としては軌道に乗っていて信徒講も盛んで、「向山寺講」は千葉県、埼玉県、東京都の中でもある程度名の知れた講にまで成熟し、成田山新勝寺への正・五・九参りが度々行われていた。そして秀音は、高須(高洲)の「三弘大師教会」における事業に重点を置き、松戸の信徒は独立した妙響に任せ、布教活動を進めることとなった。

菩提寺を持たぬ祈祷寺の苦難

しかし、妙響にとっては、松戸市内の長い歴史の上に成り立つ多くの寺院(菩提寺)のような基盤はなく、檀徒をもたず、境内すらも借地での活動拠点であったため、新規に築き上げていかなければならい祈祷寺としての運営は、決して楽なものではなかった。
戦後動乱からの時代背景の中で、世間の仏教信仰は伸び続けてきたが、信徒の信仰に答えるべく集いの場をこの昭和の時代になって新規に設立するという寺院の確立(開山)は、信仰に支えられながらも、実質的には「妙響」が尼僧として一人の力で寺院運営を行なった。
そんな中「妙響」は、夫となる「小松康秀(やすひで)」と出会う。

遠方から参列する寺院となる

この頃から向山寺としての年中行事も定着し、東大峰山の山号のもとに大峰山への入峰行事も実施され、当寺の年中行事として行われた柴燈護摩法要は毎年盛大に行われていた。
この柴燈護摩法要には法螺の吹螺師(すいらし)《法螺の名師、本間氏等》をはじめとする修験者達が遠方から参列した。特にその当時では、尼僧が柴燈護摩を修法することは例がなかったほどで、全国的にも注目があったようである。

寺院に降り注ぐ逆境

昭和40年代になると妙響の夫、康秀が重い病におかされ、入退院、通院を行う毎日となった。康秀は左官業を経営していたが体調不良のため妙響が寺院運営と会社経営を掛け持ちすることとなった。そうした多忙な日々を送る中で、昭和45年には火災により寺(本堂)及び庫裏が全焼してしまい、翌46年には康秀の死亡した。社会的にもこの時期になると、世間の宗教に対する意識も変わり、マスメディアの影響もあり、祈祷やまじないを商売としておもしろおかしく表現する宗教家や占い師が増えてきた。

つくば市高見原へ移転

妙響としては、松戸市内のほとんどの寺が菩提寺であることから、都市化社会によるこの地域の信仰心の変化に対応して、小さな祈祷寺が改革を行うことはなかなか難しい時代であることという考えから、借地権の権利金僅かを得て、ほかの土地を取得し、菩提寺となることを決意したのであった。そして、昭和48年に現在のつくば市高見原の地を取得し、「向山寺」の事務所兼庫裏(居宅)を建築、移転し、昭和50年に大井の地に「向山寺茎崎霊園」を建設したのであった。

秀音の御詠歌

当時の「秀音」の修験道の普及活動は本山の醍醐寺でも頻りに執り行われ、今の醍醐に残る御詠歌の節は、秀音の節と言われる三弘流とも言われたのだが、残念なことに今その歴史を知る者はほとんどいない。

「秀音」の作った代表的な御詠歌としては『お手引き大師御詠歌』と『高須大師御詠歌』がある。服部如實著、京都・三密堂書店発行書籍『表白・諷誦・願文・集』に紹介されている。